文化・芸術

城南歯科物語(その2)第1章誕生まで2

山本美智子です。(前回の続きです)

大手町にある松翁会診療所は、前の職場のような切磋琢磨というよりは、和気あいあいといった穏やかな雰囲気で、私の妊娠後はこちらからのお願いを容れて隔日勤務にするなど、大変便宜を図っていただき、感謝しています。

ー専業主婦時代ー

平成49年、長女の出産を機に、いったん仕事から離れました。52年生まれの次女とともに二人の子供に恵まれ、母としての喜び・幸せを味わいました。そして家庭の仕事も大好きなので、料理や洋裁も習い、子供服づくりを楽しみました。

ただ、毎日の子育ての連続はつらいこともあり「子を持って知る親の恩」という言葉が胸にしみました。さらには臨床から遠ざかり、仕事ができなくなるのではないかという焦りもうまれ、できるだけ専門誌に目を通すようにしていました。

昭和53年、主人の札幌医大口腔外科奉職に伴い、北の大地に移り住みました。他を受け入れる大らかな人々の中で、子供たちも伸び伸びと育ちました。

ー歯科医師再開ー

下の子が3歳になったら仕事復帰したいと予定していたとおり、幼稚園に通いだしてから大学の口腔外科で研修させていただき、北海道社会保険中央病院歯科に勤務することができました。

それ以前の診療経験は東京駅周辺なので、会社勤務の年代の患者様だけでしたが、中央病院では様々な年代の方に接し、大変勉強させていただきました。

ー金沢の人となるー

昭和63年、主人が金沢大学歯科口腔外科の教授として選んでいただき、北陸の古都金沢に住むことになりました。気品のある美しい街で、人情も厚く、4月の兼六園の桜はたとえようもなく、「ここに住んでいて本当によかった」としみじみ感じたものでした。

娘たちは小中学校から高校まで金沢で過ごし、大学は東京で洗足の自宅から通いました。娘の世話や母の介護、そして歯科の勉強のため、私の週末はほとんど上京している状態でした。

その頃主人は多忙を極める仕事と、休日は趣味のマラソンで全国を飛び回っていました。時には夫婦で結婚式の媒酌人を頼まれるなど、非常に充実した日々でした。

ー院長として市内歯科医院勤務ー

当時の私は市内のM歯科医院に院長として勤務していました。金沢に転居して程ないころ、M先生が急逝され、なぜか突然私に白羽の矢が立ち、医院の継続を依頼されたのです。

それからは6人いるスタッフの給与が払えるように、4台の診療椅子をフル回転させ、毎日沢山詰めかけてくださる患者様の対応に追われました。どうしたら質の良い診療をしながら、患者様の待ち時間をへらせるかを、終始考え続ける日々でした。

その間にも歯科矯正治療のコースで勉強し、ベーシックコース・アドバンストコースを終了するなど、診療の幅を広げていました。M先生の奥様との連係プレーもよく、医院経営も好調でした。

そこに勤務して7年がたったころ、私自身超多忙な臨床に疑問を持ちました。自分が目指す最高の歯科医j療が、短時間診療では果たせないこと、また体力的にも車で50分かけて通うのは限界かと思ったことで、奥様に辞任を申し出ました。

ただその時は、奥様の強い慰留で、継続することとなりましたが、それから2年ほどして、ようやく「長いこと有難うございました。どうぞ御自由にしてください。」との言葉を頂き、人生の「ご褒美の休暇」(サバティカルイアー)を取ることになりました。M歯科医院はその1年後にご長男が帰郷され、立派に継いでおられます。

ーご褒美の休暇ー

それからが大忙しでした。今まで仕事のために封印していた憧れのことを、すべてしようと、カルチャースクールにお弁当持参で通ったのです。ピアノ、英会話3コマ、短歌、油絵、水彩画、テニス、クラシックバレエ、ボーセレン人形つくり、香道、謡曲、スキー、スポーツジム、そのほかロサンジェルス郊外にホ-ムスティしての短期語学学校、ロンドン郊外のホームスティ、シドニー市庁舎での香道エキジビション等、息せき切って趣味をがんばりました。

とても楽しく、世界が広がり自由な気持ちになれた一方で、どこか一抹の寂しさがありました。それは自分の趣味を進めるだけでは、他の人の役に立っていない、という自責の念のようなものでもありました。そこでボランティアをしなければと思い立ちました。

                               (次に続く)

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